今年も残り15%(54日)を切りました。年々、時間が経つスピードを速く感じます。
このDESIGNGISEID.COMブログは毎月少しずつPV(閲覧数)が伸びていまして、例えばフォントに関する記事は全く宣伝しないまま5,000PVを超えてびっくりです。未だに収益化してないですがとても励みになります。誠にありがとうございます。
本日の考察は以下のような方にお薦めでございます:
- 時間があっという間に過ぎるな〜と感じている
- 自分のやりたいことが後回しになりがち
- アニメや映画を倍速で見る(タイパ…生産性を重視する)
- 芸術の道に進もうかどうしようかの決心が鈍っている
- 行動を起こすきっかけを探している
本日考察するのは、時間(人生)の使い方です。この考察に必要ないくつかの参考文献を記事末にリスト化しました。中でもタイトルにある『限りある時間の使い方(オリバー・バークマン著)』(以下、本書)は考察の中心になる一冊なので、後でぜひお手にとってみてください。

『限りある時間の使い方』という本を要約動画や要約サイトで済まそうという考えは本末転倒…かな?!
本書を読み終えた後にさまざまな要約動画やサイトを見ましたが、それぞれ抜き出している箇所が違っていてカンペキな要約はひとつもありませんでした。この本は自分で読んで考察することで初めて得られるものがあると思います。
ここまで読むためのたった30秒すら耐えられないひとは、本の要約動画を見たところで肝心の想像力や思考力は鍛えられず、かえって時間を無駄にするかもしれません。時間は有限ですが、だからといって、はじめから忍耐力のないひとはどんな手を使ってもきっと何者にもなれないでしょうね……というお話です。
※このブログは要約ではく考察なので、長いですよ。
PART1:現実を直視する──今、覚悟しなければならないこと
自分のために使える時間はあといくつ?
人生は何百万時間もあると思っていた。現実には70万時間=29220日=4178週しかない。しかもこれは満80歳での計算。本当に私が80歳まできっちり元気に生きるとしても残された私のために使える自由時間は2000週分もない。なぜなら、その大半は自分以外の『誰か』のために使うから。
仕事はクライアントのためだし、家族のための毎日の料理、掃除、洗濯、友達や友達でもないひとのSNS。
毎週1万円貯金しても2,000万円も貯まらないのか。というかこのままだと2,000万が貯まる頃に人生が終わっちゃう。
まずはこの事実を意識するだけでも時間の有り難みが爆上がりする。
何もかもはできない。
事実、時間は有限である。いつ人生の幕が降りるかもわからない。そして、年々加速する。特に30代以上のひとならお分かりいただけるだろうか、20代以前と比べて今の「1年」はあっという間だということを。新春に見始めたドラマやアニメがあっという間に終盤を迎えて『主人公はこんなに成長したのに…』と、何者にもなれていない我に返って落胆する。社会人1〜2年生くらいまではともかく、アラサー以降は◯年生という区切りもなく自分の成長度合いが測れなくなるのかもしれない。去年の私より今年の私は何か成長したのだろうか、と。
現実世界のわたしたちは時間を巻き戻したり一時停止はできない。そんなことはわかっているのにちゃんとわかっていなかった。覚悟が足りていなかったというのかな。私のやりたいことはあれもこれもあるのだけれど「とりあえず今のタスクが終わったら」みたいな先延ばしが常だ。
そもそも他人のための仕事や家事に忙殺されてよい人生と言えるのだろうか?
──仕事に100%振り切れるひともいる。最近までの私はそれだった。
私は私のためにいつ生きるのか?
今回の考察のメイン著書『限りある時間の使い方』(以下、「本書」)はこう断言している:
限界を受け入れるというのは、つまり「何もかもはできない」と認めることだ。
『限りある時間の使い方』第1章「なぜいつも時間に追われるのか」ー第4節「冷たいシャワーで目を覚ませ」
このあとゆっくり考察をしていくが、上記の言葉の本質は「人間は自分のことも他人のことも全部は無理。それが当たり前だから、できなかったことがあってもしょげない。しょげている暇もないよ。」ということだと私は解釈している。
段階的に「時間の有限性」を考察しよう
◆最初は「見方」を変える
例えば、不妊治療を頑張ったひとや、愛犬や愛猫が虹を渡るところを見送ったひと、あるいは、歴史資料館を訪れたひとや、生とは死とは何かと折に触れ考えたことのあるひとは、この1文で伝わるだろうか。
──そもそもこの地上に生まれてきたっていうだけで奇跡であるということ。
なんだかスピリチュアルで受け付けられないというひとのためにも、もう少しだけ本書を掘り下げてみる。
本書の中では、イギリスの彫刻家が直面した2歳の息子の非常につらい体験、近所で起きた悲惨な事件を通して見方が変わったカナダの作家の視点、大切な友人を亡くしたイギリス紳士の気づきなどが書かれている。彼らの実体験を読むだけでも十分に腑に落ちるのだが、そうした喪失の経験をする前に、わたしたちは「時間」との関わり方を学ぶ方法はないだろうか?と著者は問う。つまり仮説の上でいいから見方を変えて考えてみようというのである。
「人間は毎日朝から晩まで3万回以上の選択をしている」という説はご存じの方も多いと思う。今の私なら『次になんて文字を入力するか』『コーヒーに手を伸ばすか、本を見返すのが先か』といった具合。
『“今”があること自体が奇跡』──だとして、こうした毎日3万回の選択ができる体験そのものが生きてここに存在しているから実現できている。当たり前だ。幽霊ならず「無」の状態ならコーヒーも飲めないしスマホも操作できない。コーヒーやスマホよりもっと大事な局面での選択について考えると、「他にもっと価値ある選択肢を選べたかもしれない」というアナザーストーリーがあるということこそが、目の前の選択肢にも価値を与える。『あっちを選べばよかったのかな』ではない。『あっちの道もあった上で選んだこの道が自分にはちょうどよい』ということである。
いや、これ、ミスチルの「Another Story」そのまんまだったりして。
◆何かを選ぶとは何かを捨てること
本書はあの有名な「大きな石の法則(→『7つの習慣』参照)」についてもこう指摘する:
要するにもっとも重要なことから手をつければ、重要でないことも含めて全部終わらせられるという意味だ。(中略)ただし、これはイカサマだ。そもそも教師は、瓶に入るだけの量の石しか持ち込んでいない。大きな石は何個入る、と前もって確認していたわけだ。でも時間管理の本当の問題は、大きな石があまりに多すぎることにある。そもそも実生活では、大事なことのほとんどは瓶に入らない。前もって細工されたクイズとはわけが違うのだ。
だから本当の問題は、大事なこととそうでないことを区別することではない。大きな石(大事なこと)がたくさんありすぎるときに、いったいどうするのかということだ。
『限りある時間の使い方』第4章「可能性を狭めると、自由になれる」冒頭。太字は当ブログ管理者によるもの。


全部入らないなら、思い切って取捨選択するしかない。
同じ出版社から出版された『エッセンシャル思考』(グレッグ・マキューン著)でも「大事なことを見極める」や「やることを減らす」「何かを選ぶことは何かを捨てること」という考えが柱になっている。
でも「捨てる」と言うだけならカンタン。人生何もかもはできないんだから諦めろって言われても、自分の人生があと50〜60年は続くかもしれなくてもそんなカンタンに割り切れるものだろうか?
だから、前節の「Another Story」的選択肢の価値を思い出すべきなのだろう。
ひとまず、今、自分が選んだ方をやってみる。先のことは誰にもわからないし、どっちを選んでも価値があるという点で正解なのだから。つまりここでいう捨てるとは、「夢を諦めろ」って言う意味ではなく「(言い訳や逃げ道の)一切を捨てて自分が選んだそれを今すぐやってみろ」という意味だとしたらどうだろう。他の選択肢を捨てたらもう選んだ道で前へ進まざるを得なくて工夫や努力を重ねるものである。工夫の中には「他人を頼る」ことも含まれるかもしれない。
- 筋トレやダイエット
- 資格試験の勉強
- 作品を最後まで描ききる
- 婚活やプロポーズ
- 転職や起業
などなど、いくらでも言い訳して逃げてきたことを今この瞬間にやってみるしかなくなった。やらないと死神が来て残りの寿命を奪っちゃうぞと言ってきてもう後に引けない!──としたらどうだろう。そういうファンタジーじゃわからない?「やりたいこと」と「やりたくないこと」がいくつか目の前にあるとして、どれを選んでも、結局はその中にある無数のタスクに追われて自分の時間を消費する。どうせ追われるなら少しでも自分にとって有意義なものを選んだらいいじゃないかという話。
少し余談だけど、私自身これまでにいくつかの究極の選択があった。
例えば、転職先。同時に2社合格して選ぶ必要があった。入社後、自分が選んだ会社にもう一方の会社が偶然にも提携先としてつながった。実際に仕事を一緒にすることになったので『もしもあちらを選んでいたら』がリアルに想像出来てしまったけど、私はこの道を選んだからデザイナーになれた。あちらの会社を選べば住む国も職種も異なる別の自分になっていただろうけど、そんなことはかんがえても1ミリも意味がない。
あるいはこういう選択もあった。「英会話」か「コーディング」か。金銭的にどちらかひとつしか通えない。どっちのスキルを修得したいか。どちらを選んでも仕事の幅は広がったと思う。結局私が選んだのはコーディングだけど、先に実務で必要になったのは英語だった。転職先で最初の3年間は海外に工場があるメーカーの仕事だったのだ。
英語できない宣言をしてあらゆる交渉…商談からカフェでコーヒーを頼むまでの全てを同僚に丸投げした。個人旅行でも現地に友達がいる街や国をピンポイントで訪れて朝から晩まで日本語でお許しいただいた。独立してからは全く英語を必要としていない。私にとっては英話のスキルはあってもなくてもどっちでも良かったんだろう。
いま、再び「英会話」と「コーディング」の両方の勉強をやらなくちゃ、と一念発起するとする。この二択だと私が飽きずにできるのはコーディングなので朝一番にコーディングの勉強をする。そうこうしていると仕事や家事の時間になり、結局英会話をやる時間は残されていない。そういう毎日が続いて年月が過ぎ、海外WEBサイト制作の仕事が舞い込んでくる。私はコーディングができるデザイナーなのでコーディングの指示を含んだデザイン設計を進める。ところが英語は全く話せないので進行に必要な通訳を雇うことにする。プロジェクトマネージャーらチームメイトの力を借りて、分業する。全部は自分一人でできないんだと認めるとリスク分散という側面もあるけど、実はすごく安心するからストレスが軽減される。
◆もっと小さな、日々のタスクを減らるか?
大きな石よりは小さいけれど無数の小さな石(タスク)はどうするのか。
例えば、私のiPhoneの『リマインダー』は毎日少しずつ増えている。買い物リスト・行きたいとこリスト・家の雑務から仕事のタスクに至るまであらゆるTO DOリストとしても使っている。本書によると、ウォーレン・バフェットなら「リストの上位10個以外の全てを捨てなさい」と言うらしい。そうはいくもんか!そういうひとのために妥協案があった。
つまり、自分のキャパを考えてMAX3つまでと1日にこなす数の制約を設ける。それ以外のリストは捨ててもいいなら捨てるけど捨てられないならとりあえず視界に入らない別のリストに放り込んでおく(気が向いたら再確認)。
PART2:確実にゾーンに入る方法
「意識的に」「注意」「集中」ってどういうこと?
トップダウン型の注意をうまく使えるかどうかで、人生の質は左右される。
『限りある時間の使い方』第5章「注意力を自分の手に取り戻す」
上記はどういう意味なのかしばらく理解できなかった。2ヶ月くらい放置したのち、もう一度この章を読んでようやく頭が追いついてきた。注意(≒集中)は、外的刺激によるもの・内側からのものの2つの違いがあるということ。外からの刺激によって注意を引きつけられてしまうとそれまで自分の集中力がプツンと切れることはよくある。例えば作業中のメール通知とか、勉強でpinterestを使っていると偶然視界に入ってくる新たな“発見”とか。
その集中力がもう少し日常的なことの場合…例えば、食事の場合、どんなに手の込んだ料理を食べても心ここに在らずだと美味しかった記憶が残らない(それどころか料理を振る舞ってくれた相手から嫌われるかもしれない)。
つまり、自分の意思で『全集中!』を使いこなせると有意義なものになるということ。
なぜ『トップダウン型』というのか?私のイメージとしては逆で、心→脳/全身に集中力が伝わっていくのかな=ボトムアップ型だと思っていたけど、脳科学者のいうことだから脳が先=上から下=トップダウンっていうだけのことだった!
一点に集中せよ
本書でいう妥協とは「いつまでも高望みをして彷徨い続けるより、さっさと一人の相手に決めて結婚生活をスタートさせた方が充実して幸せじゃないか」というようなことだ。もっと勇気の決断とかカッコいい言い方をすればいいのに。
もちろん、私の目指すイラストやデザイン、芸術の世界にも言える。
「高みをめざして努力するためには、努力の対象となる何かに、比較的永続的な方法で腰を据えなければならない」と彼(※Robert E. Goodin, On Settling(Princeton, NJ: Princeton University Press, 2012),65.)は言う。つまり超一流の弁護士や芸術家になるためには、まず他の可能性をすべて諦めて、法律や芸術を学ぶことに打ち込まなくてはならない。やりたいことを全部追い求めていたら、どれも中途半端に終わってしまう。だから、ほかにもっといいキャリアがあるかもしれないという誘惑を振りきって、法律や芸術で妥協するのだ。
『限りある時間の使い方』第4章 第3節「選択肢は少ない方がいい」※カッコ内は管理人による補足
観察する
また、本書の別の章では、芸術に関係するもうひとつの記述がある。(第11章)
ハーバード大学ジェニファー・ロバーツ美術史家の「美術館に行って絵画か彫刻をひとつ選び、3時間じっと見る」というワークショップについて記述されていた。詳細は本書を参照していただくが、この『じ〜〜っと美術観察』は美大生の多くは経験があると思う。与えられた時間は果てしなく永遠に感じるし、講義の主旨というかじっと観察する意図を何も教わらないので「観るとは?」という根本から頭をひねることになる。
ここで別の本から関連する内容を引用する:
一般には、見るというと頭蓋骨の眼球孔を満たす球体の器官を思い浮かべがちだ。しかし現実には、見るプロセスの多くが脳内で起こっている。視覚情報を処理する際は脳の二十五パーセントと、神経回路の六十五パーセント以上が使用され、これは他のどの感覚よりも使用率が高い。しかも見る行為の発端となる目の一部は、そもそも脳の一部なのである。(中略)人は目で見るのではなく、脳で見るのである。(中略)
見るためにはまず、光が瞳孔を通過し、眼球の後ろ半分を覆う網膜と呼ばれる薄い膜の神経系細胞に届いて、電子信号に変換されなければならない。高校のとき、網膜はカメラのフィルムのようなものだと教わったと伝えると、スン博士は首を横に振って、よくある誤解だと言った。「網膜はフィルムなんかじゃありません。非常に複雑な構造をしていて、カメラよりもすごいんです。どっちかというとコンピュータですよ」(中略)
大人になるということは、複雑な世界の成り立ちに無感動になり、斬新で、革新的で、緊急度の高いものだけに目を奪われることでもある。ライバルに差をつけるためには細かいニュアンスを丁寧に拾わなければならないというのに、経験や直感に頼って細部を切り捨ててしまう。毎日のように目にして、処理しているものこそ、きちんと見るべきだと言うのに。
『観察力を磨く名画読解』第一部「観察」
「神は細部に宿る(God is in the details.)」──ドイツの建築家の間で生まれたこの言葉は、現代日本のデザイン界でもよく言われている。ただ、本書でいう絵画の観察忍耐戦はそういう細部の美をみつけようっていう単純なことではない。美大生が美術館で粘っているのはそういうことではなく、眼(脳)の解像度が上がる!的なことなのである。
本書の中でもその体験をちょっとわかりにくい言葉で説明してくれている。
心理学でいう二次的変化が起こったのだ。時間を速めようという無駄な努力を放棄した瞬間から、本当の体験が始まった。(中略)現実と自分が、ようやく一致したといってもいい。
『限りある時間の使い方』第11章
著者はゾーンに入ったのだろう!
オリジナルが生まれる過程
本書11章の最後にヘルシンキのバスの例え話「バスから降りるな。バスに乗り続けるんだよ」がとてもわかりやすい解説なのだが、そのまま引用すると長過ぎてしまうので、あえてここは考察の図のみ掲載することにした。
ちなみに、クリエイティブな仕事をするものイラストの修行をしているものなら重々承知である。「耐えろ!」


まとめ
ざっくり総括
まだまだ書き足りないのだが、本書を読んで特に大きく「これだ!」と思ったことを書いておく。
本のタイトルが「限りある時間の使い方」とあるので、最初はタイムマネジメントの新しい指南書かと思っていた。一部はそう捉えてもよい内容だが本書全体を通して私が感じたことをすごく短くまとめると、
だった。
紙の本で買ってしまったので本文中の単語検索ができないのだが、本書の中には一度も「丁寧に生きろ」とは書いていない。と思うたぶん。
タイムパフォーマンスとか言ってる場合じゃない
著者曰く、現代人は短気になっている。アニメや映画を倍速で見たり、本は要約サイトで読んだことにする。ネットの回線がちょっと遅いと感じたら何度も画面をリロードしてイライラするくらいもう誰もADSL時代の忍耐力がないのだ。
倍速はタイパだよ、タイムパフォーマンス(時間効率)…きっとそういうひともいるだろうけど、Youtubeの5秒CMですらスキップしたいと思っているのは効率ではなく忍耐力の問題では?というようなことが本書に書かれている。
そういうイライラは外的なものだけに収まらず自分の成長スピードにも気が短くなっている。早く結果を出したい。早く認められたい。早く稼いで早く隠居したい。
これらは「人生が短いという事実」を認めたくないという裏返しの心理なのだそう。
ところが、どれだけ便利な時短ツールを使っても自由な時間や心のゆとりは増えていない。本書の中でもその具体例が列挙してある。誰しも身に覚えがある指摘ではないだろうか。時短料理をマスターしたところでわずかに空いた時間を一体何に費やしているのだろうか。ついついスマホでパズルをやってしまったり、しょうもないCMを見せられて、息抜きのつもりが、気がついたら時短料理で得た余白はとっくに消費してしまっている。
私はかつて「ポモドーロ・テクニック🍅」というタイムマネジメントで自分を律しようと試みたこともある。このブログのあちこちにその形跡があるのだが、部分的にタイムマネジメントをしても意味がないということがわかった。トマト🍅が表に入りきらなくなるくらい一部の作業に没頭してしまうからだ。(下図)


本音ではしごとよりもイラスト練習や大学の課題の方が「人生でやりたいことランキング」は上位のはずだった。なのに私の🍅はほとんどしごとに費やしている。もちろん、しごとも好き。人生のほとんどを犠牲にしてデザインばっかりしてきたのだから。本書にもこう書かれている:
やりたくないことを断るのは簡単だ。(中略)難しいのは、やりたいことを断る決断だ。
「自分がぜひやりたいと思うことに、ノーと言う。それはとても難しいことです。それでも、断ることを学ばなくてはいけません。人生は一度きりしかないのですから」
『限りある時間の使い方』第4章 第1節「タスクを上手に減らす3つの原則」
ゲームやスマホが悪いわけでもないし、時短料理やポモドーロ・テクニックが悪いわけでもない。誘惑に振り回されている人間の方が悪いというか弱いという話なのだ。やりたいことを全部やろうとする前に、時間の有限性に気づくべきだった。
そこで前章の「集中力」を鍛えるという話につながってくるのだ。
【改訂】肉体的キツさと、精神的キツさ
ただ「鍛える」というと筋トレのようにキツい修行のイメージだが本書は修行僧のようになれとは全く言っていない。読んでいるこちらも修行僧のイメージは最初から最後まで感じなかった。むしろ、
ゆっくり呼吸をしよう
みたいなことを言われている気がした。ヨガの時みたいな、“丁寧に生きよう“みたいな。
例えば、
つまり、読書も例外ではない。というより、ほとんどの答えは本の中にある。
おなじようなことを岡田斗司夫さんも言っていた(下記の動画参照)。正確には「本を読めば、思考力や想像力が勝手に上がっていく」らしい。読書も人生に必要なもの。要約サイトに頼らないと読めないくらいなら、その本はあなたの人生には不要から切り捨てた方が良いということだ。
ただ、私の場合、問題はそこじゃない気がする。
【改訂】最難関の壁=コツコツ
私の祖母は書道家で茶道家だった。どちらも一夜漬けでできるものではない。永遠と終わりのない「繰り返し」の修行。子供の頃はその繰り返しが退屈でしかたなかったが、今となっては『ちゃんとやっておけば…』と思う。
私はとかくコツコツ系が続かない。いまだにデッサンやクロッキーは投げ出すし、SNSも毎日続けられない。あらゆるタイムマネジメント本を読んで実践をしてみるがうまくいかないのは性根の問題だなぁと悩んでいました。
結局のところコツコツが唯一で最善の策(やりたいこと=イラストが上手くなる策)であって私にとっては最難関の壁、ということを再認識させられました。長尺の映画鑑賞もできるし分厚い本も読めるのに小さなことを少しずつ毎日が出来ない!
※そんな私でも最近ちょっとコツコツを可能にする方法を掴みかけてます。どうしたらコツコツ続けることができるようになるのか?を、言語化するのはまだ難しいので追々解説をしたいと思います。
【追記】急ぐな危険
中田敦彦さんの解説では失敗の原則のうち「結果を急ぐ」ことを挙げていて、その対策は「毎日コツコツやること」とありました。Part2の最後に書いた『ヘルシンキのバスの法則』も同じく毎日コツコツを繰り返すことを意味しています。
そのコツコツが出来ないから悩んできたのよ。
後半の解説が出たらまた続報書きます!